2015年7月12日日曜日

オマー・シャリフさんのこと

私のフランスの作曲と指揮の先生が、フランス映画音楽界の巨匠と言われるジャンクロード・プティ先生。

そのジャンクロードが映画「Mayrig」(日本未公開)の音楽を担当することになって、
この映画のロケにご一緒させていただいたことがあります。
1990年のことだと記憶しています。

(ジャンクロードが担当する映画の撮影現場には、
これまでの何度か連れて行っていただいたことがありますが、
特に「Mayrig」は印象に残っています。)

この日の撮影は、主演したオマー・シャリフさん(父)と、
息子さん(役者名を失念、、、)が古いテアトルで再会し、
そのとき、ドゥドゥークというアルメニアの楽器を息子さんが吹く、
という二人だけのお芝居のシーンでした。

移民がテーマのストーリーです。

音楽担当であるジャンクロードは、
ご自身の楽曲の、とあるフレーズをドゥドゥークで吹く
という場面でもあるので、その監修をつとめておられたのでした。

撮影はとても感動的で、
パリの古いテアトルということもあり、
シチュエーションとともに「ああ、これが外国映画の撮影というものか」と、
当時、私の心に、大きな印象を残してくださったものでした。

お二人のシーンも、長い年月でのお互いの確執が打ち解けるという場面でもあり、
素晴らしいものでした。

撮影が休憩になったので、ジャンクロードと監督さんが
「こういうテアトルを見学するのもミサの作曲の糧になるかもしれないから」
と、自由に見て回っていいよ、とおっしゃってくださり、
一人、館内を見て回ることに。

まだ慣れないパリで、観光ならば絶対行かないような古いテアトルを
一人ウロウロしている自分の、この環境に、
自分でも不思議な感覚でした。

あ、なんでいまパリなんだろう。
なんでここに一人で、ここを歩いているのだろうというような

ご縁といいますか、ならば、このご縁をなぜ私は授かっただろうか、、
みたいな、シンクロニシティ的な不思議な感覚です。

ステージの裏導線からホワイエに向かおうとしたとき、
いくつか並ぶ椅子に、オマー・シャリフさんが一人でポツンと
おられました。

オマー・シャリフさんといえば、
「アラビアのロレンス」で、ベドウィンの部族長役をされていた方。
さらには「ドクトルジバコ」にも出演されていて

その2つのサントラのレコードが家にあり、
母が大好きで私も幼い頃から自然と聞いていたこともあり

目の前に、あの名優「オマー・シャリフさんがいる!」
と、なんというか、夢のようと申しましょうか。。。。

確かに、先ほどもテアトルの一番後ろの席で撮影を見させていただいていたので、
目の前、とはいきませんが、オマー・シャリフさんがおられました。

でも、あの空間は、手が届かない空間というか、
異次元的なところです。

でも、今は、普通に、本当に目の前に、
役柄から解放された生身のオマー・シャリフさんがおられるのです。

当時は携帯電話がなかったのですが、あればきっと
時差ももろともせず母に電話していただろうと。
今思えば、きっとそうだったろうと。


そのとき、オマー・シャリフさんが声をかけてくださったのです。

「あなたは日本人?」

そうですというと「さっきの演技、どうでしたか?」と。

「とても感動しました」というと

「ああ、よかった。」と満面の笑顔で。

コーヒーを飲みますか?と、なんと、ご自身でコーヒーを
持ってきてくださったのです。そのあと、椅子に座って、
少しの間、お話をすることが出来ました。

アラビアのロレンスのお話もサントラも家でしょっちゅう
流れていたことも。

この時の、オマー・シャリフさんのお話を伺って、
民族、ということを改めて私は意識したのだと思います。

このことは、私自身の音楽の方向性を見いだすきっかけにもなり、
その延長線上として、国立チュニス交響楽団メンバーさまや、
バーレーン王国管弦楽団さまとコンサートをさせていただける
ご縁を授かったと思っています。

既に名優であられ、この映画でも主要な役を演じておられるのに、
休憩ではお一人で静かに過ごされ、
こんな私にきさくに話しかけてくださり、
コーヒーまで持ってきてくださる。

当時、ジャンクロードにこの話しをしたら
「お互い、こうでありたいよね」とおっしゃっておられました。

そのオマー・シャリフさんの訃報をニュースで知り、
感謝とともに「Marlig」の、物悲しくも美しく壮大なる
ジャンクロード作曲指揮のサウンドトラックを聞きながら、
あの日のロケを思い出している私です。